永地 秀太

永地 秀太「湯ヶ島より」1919年,F12号,油彩・キャンバス
第16回太平洋画会展(1919年)出品作

 

伊豆・湯ヶ島にいた文人と画家

 湯ヶ島は伊豆の修善寺と天城峠の間にある温泉地だが、文人ゆかりの地としても有名だ。明治末には島崎藤村と田山花袋が訪れた他、柳田国男や木下杢太郎などが訪れている。最も有名なのが川端康成で、『伊豆の踊子』はこの地で執筆された。『伊豆の踊子』は、当時20歳で学生だった川端が大正7年10月31日〜11月2日に湯ヶ島−下田を旅行した体験が元になっている。
 川端康成が湯ヶ島を通った3ヵ月後、大正8年2月の第16回太平洋画会展に永地秀太「湯ヶ島より」は出品された。永地は45歳を越え、官展・太平洋画会では大家的な存在になっていたが、抜群の写実力は衰えていなかった。湯ヶ島を旅した動機や経過についてはわからないが、若き川端が通った道を数ヶ月前後の間に永地も通ったことは間違いないだろう。仮に道ですれ違ったとしても永地は、将来の文豪になる青年に気づくはずもなかったであろう。
  ましてもう一人の将来の文豪・井上靖がいたことに気づくはずもない。井上靖は湯ヶ島で少年時代を過ごした。その体験は自伝的小説『しろばんば』に書かれている。大正8年は『しろばんば』の中では洪作(井上靖)が小学生の時だったが、「さき子」が死んだ年にもあたる。さき子は若い叔母であり、尋常高等小学校の先生であり、恋愛の対象でもあった。さき子の死を悼むかのように、仲間たちと天城峠を黙々と登っていく場面は印象的だ。現在その小学校の校庭には井上靖の文学碑がある。碑には「地球上で一番清らかな広場。北に向かって整列すると遠くに富士が見える。回れ右すると天城が見える。富士は父、天城は母・・・」と刻まれている。

永地 秀太

1873-1942

下松市生。旧姓は有吉。徳山中学卒後に上京。本多錦吉郎や松岡寿に師事。1892-94年明治美術会付属教場に学ぶ。1902年太平洋画会の創立で中心的役割を果たす。以後同展に出品を続ける。1909年文展で褒状、1913年文展で三等賞。1920-23年文部省在外研究員として渡欧。帰国後、東京高等工芸学校の教授となる。1924年フランスのサロンに貢献したとし、レジオン・ドヌール勲章を受ける。1924年から帝展では審査員を務めた。