津田 青楓1880-1978京都市生。関西美術院に学ぶ。1907-10年安井曽太郎と渡仏。1911年文展で入選。夏目漱石との交流し、油絵の手ほどきや本の装丁もした。1912年新帰朝者洋画展。1913年文展で落選。1914年二科会の結成に参加。1929年京都・東山で津田青楓洋画塾を主催。河上肇の影響もあり社会主義思想に関心を寄せる。1931年二科展に「ブルジョワ議会と民衆生活」を出品すると、官憲に「新議会」と改題させられる。1933年小林多喜二の獄死に触発された「犠牲者(拷問)」を制作中に連行される。釈放後、転向し専ら文人的な日本画を描くようになり、良寛研究にも傾倒。1974年甲州一宮町に青楓美術館が開館。1978年没。 柳家とは柳敬助の家と思われる。1911年6月東京小石川の高田老松町に転居。近所の貸間にアメリカ帰りの柳敬助やフランスで知り合った斎藤与里他、相馬御風、小川未明らが住んでおり、往来をしていた。その年は文展で「インクラインの五月」が特選、新聞・雑誌に随筆や挿絵を依頼され多忙な時期であり、絵の手ほどきをした夏目漱石と知り合った年でもあった。 |
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津田 青楓 「柳家にて」 1911年 油彩・ボ−ド P3号 |