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大正洋画の覚え書

(1)岸田劉生

大正期における重要画家の筆頭は岸田劉生である。
以下、瀬木慎一『岸田劉生』(1998)東京四季出版を元にまとめた。

岸田劉生は明治24年に築地に生まれた。父は事業家でありジャーナリストであった岸田吟香である。当時の築地は、外国人居留地として異国情緒のある場所だった。後年に《築地居留地風景》(1912)など「居留地もの」と言われる作品群を残している。築地や銀座で育ったことは洋画家になるための様々な材料があった。銀座にあった洋画額縁屋「磯谷商店」には洋画の展示もされ、大きな肥しになったと思われる。

葵橋研究所に通い洋画を学んでいたが、1911年武者小路実篤らの『白樺』を知り、そこに掲載されたゴッホやセザンヌに感化され、後期印象派の日本化を目指す。瀬木慎一の言葉を借りれば「鹿鳴館にではなく、浅草オペラに属するもの」を求めたのだ。

1912年4月に初個展を開くが、評判は良くなかった。しかしながら洋行帰りの斉藤与里と意気投合し、まもなく「ヒュウザン会」を開く。ヒュウザン会は「緑の太陽」と言った高村光太郎や、異彩を放っていた萬鉄五郎、川上涼花などを加えた個性的な集団となり、新しい洋画の流れを生み出していった。ヒュウザン会は2回の展覧会ののち解散してしまい、メンバーは二科会と草土社に散らばっていった。

1915年草土社を立ち上げ、劉生色を強めた団体へと導いていく。この年「岸田の首刈り」と言われるほどおびただしい人物画を描いた。また《道路と土手と塀(切通之写生)》を初めとする緻密写実の風景画も多く描き、絶大な影響を持つようになった。草土社には椿貞雄、中川一政など多くの画家が慕う他、渋沢栄一の孫や原富太郎(山渓)の息子までのちの財界人までも参加した。

1917年結核療養のため鵠沼に移住した。画壇が印象派へ向かう中、劉生は「擬古典主義の方向」へ進み、より内なる美を求めた。家族の肖像を描くようになり、そこから「麗子像」シリーズが生まれた。

晩年は古画・骨董収集にのめり込み、絵が売れても借金の返済という生活になっていった。作品も油彩画は減り、中国趣味の水墨・水彩画を中心とした制作に没頭した。

以上は要約だが、瀬木慎一は劉生の仕事を「東洋を軸とした両世界融合のための積極的で冒険的な試論」と表現した。「両世界」つまり東洋と西洋の狭間にいる故の問題は、日本人の洋画家につきまとう宿命的な課題であるが、劉生は片方の世界に魅了されたり捨てたりの試行錯誤のなかで、「切り通し」を生み「麗子像」を生んだと言えるだろう。劉生は、日本人の洋画家という存在自体に孕む東洋と西洋の美の歴史の狭間に切り込み、大正期においてもっとも日本人独特の方法で洋画を描いた画家であり、その最高値を引き出した画家である。同時に江戸っ子として銀座に届けられる西洋文化の風と、江戸文化の染みた土を栄養としながら、古今東西にアンテナを伸ばしていったとだろう。「麗子像」が放つ神秘性は、日本の情緒を含んでいるからだ。飽くない美の追求は、表現に止まらず、生活を破綻させるくらいの収集へとも向かわせたのだろう。

蛇足ながら気になる点を挙げた。
(1)洋行していないにもかかわらず西洋美術の消化が進んでいた。
  〜『白樺』に関わることでの情報収集が進んでいた。
(2)大正期に作品と運動のピークがあり、昭和の始まりと共に終焉した。
(3)美術雑誌に作品を予約販売する広告を出すなど営業力があった。
  〜手元不如意だが、月々10円を積み立てると、一年に一枚作品が受け取れるという趣旨だった。

神奈川県立近代美術館『岸田劉生展』(2001)を区分けを参考に作成。
時代 区分 団体 代表作
1907-1913 銀座時代 ヒュウザン会 《築地居留地風景》
1913-1917 代々木・駒沢時代 草土社 《道路と土手と塀(切通之写生)》(重文)
1917-1923 鵠沼時代 草土社 《麗子微笑(青果持テル)》(重文)
1923-1929 京都・鎌倉時代 春陽会 《冬瓜茄子図》

 


瀬木慎一『岸田劉生』(1998)東京四季出版
神奈川県立近代美術館ほか『岸田劉生展』(2001)

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©Keiichi INOHA