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明治の洋画(後編)解説

(1)白馬会

明治26(1893)年フランスから帰朝した黒田清輝と久米桂一郎が明治美術会を脱退し、明治29(1897)に白馬会を結成した。ラファエロ・コランの影響を受けた明るい色調を特色とした画風は、「外光派」と呼ばれた。また白馬会は明治美術会(のち太平洋画会)と比較で、「新派」と「旧派」、「紫派」と「脂派」と呼ばれた。

黒田清輝
白馬会のリーダーである黒田清輝は、第1回白馬会展に《昔語り》を出品。この作品はシャバンヌの壁画に感化された構想画を試みたものであったが、モチーフなどから現代風俗画として影響を与え、小林萬吾《門付け》、和田英作《渡頭の夕暮》、白瀧幾之助《稽古》など明治後半における風俗画の秀作を生んだ。これらの作品群は初期の白馬会の特色と言える。
第2回展に《湖畔》(重文)、第3回展に《緑陰》など重要作を生むが、後半は画風的な進歩や精気は見られなくなる。むしろ東京美術学校の西洋画科を一任される他、文展審査委員、帝国美術院など日本の洋画アカデミーの確立に力を注いだ。

藤島武二
白馬会の後期は藤島武二を中心に動いていく。藤島は外光派から次第にアール・ヌーボーやイタリア・ルネサンスを摂取した浪漫主義的な作品を展開していく。第7回展の《天平の面影》や第9回展の《蝶》は、外光派から脱した新しいスタイルの提示で、青木繁ら若手画家に限らず文学界などにも影響を与える。また古今東西を摂取できるような包容力は、教育者としても定評があり多くの若手画家の可能性を開花させていった。

岡田三郎助は《紫調》(1907年)をはじめとした美人画が人気を得た。後年にも《あやめの衣》(1927年)という代表作を残している。和田英作はバラを描いた静物画や富士を描いた風景画で人気を博した。美人・バラ・富士は日本人に好まれるモチーフとして長い間取り上げられた。

青木繁
第8回展の白馬会賞では青木繁が受賞した。青木は、翌年に代表作《海の幸》(重文)を制作し絶頂期を迎える。しかしながら第10回展では出品鑑査にはねらるなど歯車は狂った。明治40(1907)年には完成度の高い《わだつみのいろこの宮》を制作したが、三等末席という不本意な評価に青木は憤慨する。これを境に生活苦や結核などにより28歳の若さにして没した。

白馬会賞
第6回白馬賞 赤松麟作「夜汽車」
第8回白馬賞 青木繁「黄泉比良坂」
第9回白馬賞 山本森之助「暮れゆく島」
第10回白馬賞 和田三造「牧場の晩帰」
第13回白馬賞 青山熊治「アイヌ」



ブリジストン美術館ほか『白馬会〜明治洋画の新風』(1996)
三輪英夫編『日本の近代美術3〜明治の洋画家たち』(1993)大月書店
『日本の美術8 明治の洋画−黒田清輝一と白馬会』至文堂

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(2)太平洋画会

明治34(1901)年明治美術会解散後、欧州より帰国した新進作家によって結成。団体名は吉田博、中川八郎、鹿子木孟郎、丸山晩霞、河合新蔵、満谷国四郎の6人が、苦難の末アメリカに渡り成功を収めたことに由来する。アメリカでの展覧会の成功は彼らに大きな自信と資金を与えた。

初期の太平洋画会は、明治美術の流れを受け継ぎながら、鹿子木孟郎を中心とした正統派アカデミズムと、大下藤次郎、丸山晩霞らの卓抜した水彩画が牽引した。白馬会と比較され「脂派」「旧派」と称されたが、画論においても対立関係にあった。

やがて小杉未醒や満谷国四郎らが、シャバンヌなどを摂取しながら東洋的な情緒を添えた作品を発表し大きな影響を与えた。また坂本繁二郎や中村彝ら新しいスターを生まれる。太平洋美術研究所(のち太平洋美術学校)からは多くの画家を輩出した。大正期には二科会の設立で石井柏亭や坂本繁二郎らが抜け、のちに設立された文展や日本水彩画会に中心的な役割を譲った。現在も太平洋美術会として活動。

<創立会員>
大下藤次郎、満谷国四郎、吉田博、都鳥英喜、石川寅治、中川八郎、丸山晩霞、渡辺審也

<会員>
石井柏亭、鹿子木孟郎、中村不折、坂本繁二郎、中村彜


静岡県立美術館・府中市美術館ほか『もうひとつの明治美術』(2003)
『日本の美術352〜鹿子木孟郎と太平洋画会』至文堂

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(3)関西美術院

明治39(1906)年浅井忠を中心に設立。前身の聖護院洋画研究所(明治36年)を発展させた形で、関西最大の洋画研究所となり、大正にかけて関西の洋画をリードした。ある意味では、創立会員も白馬会系でなく太平洋画会系の画家で、新たな活躍の場を探していた画家たちだった。それでも多くの才能ある若手を育て、将来日本の中心的な存在となる梅原龍三郎や安井曽太郎を輩出した。浅井没後は中山岩太、鹿子木孟郎、伊藤快彦、霜鳥之彦が院長を務めた。

<創立会員>
浅井忠、伊藤快彦、都鳥英喜、鹿子木孟郎、小笠原豊崖、田村宗立、萩原一羊、牧野克次、桜井忠剛

<会員>
沢部清五郎、田中善之助、浅野快泉、霜鳥之彦、足立源一郎、津田青楓、榊原一廣、間部時雄、梅原龍三郎、安井曽太郎

明治34(1901)年に設立した関西美術会は、京都の美術指導者・中山岩太らが関西における美術の発表の場として起こした美術団体である。関西美術会には、関西美術院の会員の出品の他、東京の白馬会からも出品を依頼し展示している。主義・主張を背景とした設立というよりも地理的な必要性による設立と言える。

明治美術会の中心にいた浅井忠が、東京から京都に移住した理由としたのは、東京での新派と旧派の対立に嫌気をさしたことや、中山岩太による京都高等工芸学校への誘いなどあったからだ。浅井忠が京都に移住するや否や、指導者的存在が中山岩太から浅井忠に代わったことは、浅井の存在がいかに大きいかを示している。


『日本の美術10 浅井忠と京都洋画壇』至文堂

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©Keiichi INOHA