明治維新後、欧米文化を取り入れる権力者たちは、洋画家に肖像画を注文する。油彩画は当時の写真に比べ、色彩の再現ができ、保存性が高いという合理性もあった。明治12(1879)年元老院は、高橋由一が明治天皇を、五姓田義松が皇后の肖像画を依頼する。住友家は、人気肖像画家であった中丸精十郎に注文をし、当時で千円という画料を支払っている。
政治家が洋画家に肖像画を描かせる伝統は100年近く続く。衆議院議長応接室には歴代議長25人の肖像画が飾られている。在職の表彰としても制度化され長らく踏襲された。肖像画とは議員へのご褒美であった。カラー写真もなかった時代に総天然色の肖像画を描かれることは、憧れでありステータスであった。しかしながら暗い背景にして威厳ある姿を写し描くという作風は、明治期から変化せず、時代と共に古めかしさを際立たせ、やがて銅像や写真にその役割を譲った。
さて現在残されたものを見ると、明治期にも多くの政治家の肖像画が描かれたと思われるが、残念ながら少ない。明治期に活躍した政治家の肖像画でも、実は、大正期に入って写真などから描かれたものが多い。すでに明治期においても肖像画の作成には写真が使われており、板垣退助を描いた石川寅治(同じ高知出身)の肖像画の傑作(高知県立美術館)も写真を元に描いていることは否定できない。もちろん写真を利用することは悪ではなく手法の問題だけであり、その再現力や奥行きの表現が重要である。川村清雄が描いた福沢諭吉や勝海舟も傑作である。
木下直之『世の途中から隠されていること』(2002)晶文社
-作品例-
五姓田 芳柳 「老婆」
山内 愚僊 「肖像」
萩原 一羊 「乃木大将」
宇和川 通喩 「甲賀良太郎像」
明治20年頃は、歴史画ブームになる。明治23(1890)年第3回内国勧業博覧会には五姓田芳柳、亀井至一、本多錦吉郎、佐久間文吾らが歴史画を主題にした作品を出品している。西洋画抑圧の風潮に対する抵抗と、国家に認められたい意識があったと見られる。
代表的な作品は、明治26(1893)年の山本方翠《浦島図》(岐阜県立美)と同年作の高橋由一が勅命により作成した歴史画2点(宮内庁三の丸尚蔵館)であろう。油彩画による歴史画は、その技量も相まって見るものに肉迫したに違いない。歴史画はやがて記録画の需要を生み出す。日清・日露戦争には画家が従軍するようになった。国家に必要とされる、あるいは国家の使命を全うすることは時代背景も合わせれば画家にとってみれば何よりの名誉に違いなかっただろう。そのことは太平洋戦争の従軍画家や戦争画の問題に連なっている。しかしながら明治末頃からは、近代的な個の確立に向かっていき、歴史画は影を潜めた。
-作品例-
芙仙「下総小金原・露営之景況」
『もう一つの明治美術』(2003)静岡県立美術館・府中市美術館ほか
山梨俊夫『描かれた歴史−日本近代と「歴史画」の磁場』(2005)ブリュッケ
明治時代の油画は板に描かれたものが多い。キャンバス自体が簡単に手に入らなかった為でもあるが、身近に手に入れられる板はその代用品以上の役割を果たした。油画にまな板を横にしたようなものがあるが、それは欄間(らんま)に掛けられた。当時の日本の家には、掛け軸を掛ける床の間はあっても、キャンバスの絵を掛けられるような壁が少なかった。壁にあたる部分は襖(ふすま)であり、それ自体が装飾されていたりした。そこで余った場所として、欄間となった。
欄間であれば、子供は手もいたずらされる心配もなく、身近な鑑賞場所でもある。もともと欄間自体が彫刻など施したり装飾性のある場所でもあったことから、必然的な適所であったのかもしれない。板画が欄間の格子自体となったものもあるし、お辞儀するように吊る下げられるものもあった。どちらも額縁という概念はなく、むきだしのまま飾られている。蛇足ながら額縁というものはとても高価なものだった。板目を利用したり、節を使ったり創意工夫も時代ならでは。
©Keiichi INOHA