(5)地上の母子像

 戦争が終わり、ジャワから日本に帰ってから束の間、吉岡憲の才能は休まることなく、むしろ勢いさえを増していた。「マルゴワ」や「笛吹き」から次のステップへ向かい、新たな画風へと挑戦した。特にセザンヌやパスキンを意識した裸婦をいくつか制作している。そこでは戦前の重厚感あるマチエールではなく、流れるような筆使いを残すかのようなグラッシ(お汁描き)描法が増えていった。しかも描くだけでは飽き足らず、描いたものを雑巾で拭き取るなど制作過程は神経質なものだった。次第にセザンヌやパスキンの影は形を変え、吉岡憲という唯一無二の画風が確立しつつあった。その集大成が、この「母子像」である。1948年毎日新聞社主催の「美術団体連合展」に独立美術協会の代表格として出品された。

 吉岡憲にとって、この「母子像」が一つの頂点に辿り着いたという確信があったに違いない。それは、こうした褐色の人物画を「母子像」以降、描いていない(私は確認していない)ことから推測する。また吉岡憲は一つの仕事を極めると、新たな挑戦へと目指していたと画家だと思うからだ。その後、褐色や肌色の実験から、グレーや青などへと移行し、さらには風景という入り組んだ配色に挑戦していった。


吉岡憲「母子像」1948年

 さて「母子像」というテーマ性について考えてみたい。「母子像」と言えば、古くはボッティチェリやラファエロなどの「聖母子像」を連想する。いわゆるマリアとイエスを描いたキリスト教的なモチーフである。吉岡憲がクリスチャンであったかわからないが、祖父や幼い頃の恩人・高橋元一郎宣教師の影響などあり、少なくともキリスト教には共鳴していたであろう。しかし吉岡憲の描いた「母子像」には「聖なる」という形容詞が似合わない。とても生々しく、現実的な匂いがする。そこに描かれたのは紛れもなく、吉岡憲の妻と子であるからだ。その意味で言えば、吉岡憲の母子像は、理想化、空想化された「聖母子像」ではなく、地上の母子像である。

 また当時の吉岡憲の状況・心境を考えてみる。戦争が終ってから3年しか経っていない時期である。兵士でなかったにせよ人間の断末魔を見てきたわけだから、心の荒廃を整理するにはしばらく時間が必要だったであろう。そのためか、毎晩新宿などを彷徨い、浴びるようにして酒を飲み歩いていたという。しかも食糧さえままならないこの時期に、妻と子に出来ることは何もない。唯一出来ることが絵を描くことだけだった。妻と子に対する思いは、愛情だけではなく、陳謝、焦り、不安など様々なものが含まれているように思える。

 「母子像」が描かれて45年が過ぎた。5年前までは“幻”とされてきた絵である。奇跡的にこの絵を扱うことができ、本展に登場することになった。むしろ本展が開催されるのも、この「母子像」との出会いなしにはあり得なかったかもしれない。45年過ぎた今でも私たちを突き動かしているのだ。そして、そんな私たちの四苦八苦をよそに、この「母子像」はどっしりと不動の如く座っている。これからも揺れ動く時代の中で、どっしりと何かを語ってくれるに違いない。

(続く)

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