(2)画歴から見る吉岡憲

 吉岡憲のプロフィールは=東京美術学校卒。サロン・ドートンヌ入選。日展入選5回・特選・・・というのはここだけの嘘である。そのような画歴であれば、当画廊でこのような展覧会を行う機会はなかったかもしれない。けれど、冒頭のような画歴になる可能性は紙一重だった(吉岡憲プロフィール)。まず東京美術学校(現・東京芸術大学)に関しては、若干16歳にして合格はしている。入学前から藤島武二に認められ、その教室に入る予定だった。にもかかわらず親の反対で入学ができなかったのだ。サロン・ドートンヌはともかくとして、1935年の20歳の旅はパリには行く予定だった。にもかかわらず向かう途中シベリア鉄道が動かなくて、やむなくハルビンに留まったのだ。日展には1943年(当時の名称「新文展」)に入選している。出品したのは一度切りであるが、具象画家であっても日展の体質は肌に合わなかったのだろう。当時の晴れ舞台である日展を回避したことに関しては、吉岡自身の選択であったと思う。

 しかし東美入学にせよ、渡仏にせよ、現在以上に画歴が物を言う時代では、当時の画家としてはかなり運に見放されていたと言ってもいい。それが吉岡憲の運命でもあり、吉岡憲に至る必然性であったのかもしれない。吉岡憲という画歴では表せない魅力的な画家になったのだから。

 敢えて画歴にこだわり話を続け、外遊歴に注目しよう。画家にとって「外遊」は画風を決定的にすることが多い。ただ当時、「外遊」と言えば「フランスに行く」ことを指した。吉岡憲の場合は、意図せずハルビンに留まり(1935〜39年)、戦時中はジャワへ行った(1943〜46年)。すでに洲之内徹によって、ハルビンは「マルゴワ」を通して、ジャワは「笛吹き」を通して語られているので、それについてはここでは触れない。

 ジャワとハルビンという街。日露戦争後は「流れ流れて落ちゆく先は、北はシベリア、南はジャバ」と言葉があったそうだ。いわゆる流れ者、アンダーグランドな筋の人間達が、商機を狙い辿りついた街でもある。端的に言えば二つの街は、芸術の前線と言うよりは歓楽街の前線であった。その街での体験が、吉岡憲の制作活動において、一つの核心を作り上げている。特にジャワで戦争という人間の最も醜い部分を見尽くした経験は大きいだろう。ジャワでの体験を吉岡憲はこう書いている。

・・・はからずもゴヤのロス・カプリチョスとロス・デサストレスを見出して雀躍した。戦争の惨虐にみちみちたロス・デサストレスの一枚一枚をあかずながめた。炎熱の街には何処からともなく乞食どもが吹きよせられ腐れかかった肉体をさらしていたし、夜ともなれば雑多な血液の淫買どもが街をうづめた。その現実とロス・デサストレスとの間はいつか取り払われロス・デサストレスはひとつの現実となって私を魅了した。(吉岡憲「好きな画家」『独立美術・1949年春季号』p4より)

「ロス・デサストレス」は、ゴヤの銅版画集「戦争の惨禍(デザストレス・ゲ・ラ・ゲラ)」であり、吉岡憲はまさに戦争の惨禍の中にいた。けれども重要なのは、戦争=非日常が過ぎ、戦後=日常になっても吉岡憲がロス・デサストレスを描くような使命を持ち続けたことではないだろうか。吉岡憲が街や人間を描いた時、一味違った感覚のリアリズムをもたらしているのは、その経験から来ているのではないかと思う。つまり吉岡憲にとっての外遊歴は、芸術を学ぶ以上に、人間の生きざまを学ぶ、修練の場であったのかもしれない。

(続く)

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