(2)島崎蓊助と吉岡憲

 さてハルビンからの帰国の正確な日付が解らない、年度にしても昭和13年と14年と二つの説があるし、銀座・菊屋ギャラリーでの初佃展も開催年は昭和15年だが7月説と10月説とがある。出品数も「50号を含む24点」「50号他21点」「50号4点を含む24点」といろいろあるが、こんなことで足踏みをしていてはいけない、重要な本を登場させましょう。島崎蓊助『父藤村と私たち』(昭和22年刊)海口書店。この本は学生時代に所持していたが、何処かに埋もれてしまい出てこない。昨年桐生市の大川美術館で開催された「描かざる幻の画家島崎蓊助遺作展」を見に行く前日に神保町の古書店で再び求めたのですが、高値になっておりました。

 島崎蓊助(1908〜1992)は文豪・藤村の三男に生まれ、兄鶏二と共に画家を志し川端画学校に通う。仲間たちと前衛「マヴォ」に傾倒、その後次第にプロレタリア芸術運動に参加するようになる。昭和4年9月父の援助を受けシベリア鉄道を経由しドイツ・ベルリンヘ行く。在独日本人左巽グループと共に活動するが、次第にその生活が乱れ困窮の度を深める。昭和8年2月帰国。竹久不二彦(夢二の息子)や辻まこと(潤の息子)のいる広告図案社「オリオン社」に入社、雑誌の表紙や挿絵、広告デザインから政治漫画、文壇漫画と幅広く手掛ける。このころ詩人の草野心平や漫画家の小山内龍や岸丈夫(松本俊介の友人)らを知る。昭和12年、随筆雑誌『新風土』を手掛けるも翌年その編集を放棄、家族・知人から行方をくらまし、日活多摩川撮影所脚本部に籍を置く。ここで吉岡と出会うのであります。とても素晴らしい文章です、すこし長くなりますが引用させていただきます。

 「・・・有名なスターと云う人達や大部屋の俳優達のにぎやかな出入りの中で、この世界では珍しい眼の持ち主に逢った。以前からお互いに顔は見知っていたが口をきくのは始めてだった。撮影所の背景を描いていると云う無名のKと云う画家だった。苦しい生活の中でやっと描き溜めた作品をまとめ、近く銀座の画廊で個展をやるから見に釆てくれと言って、その時は別れた。私は妙にKの印象が残っていて、滅多に展覧会なぞへは出かけないのだが行って見る気になった。ハルピンや北満奥地の白系露人の生活に取材して、暗い沈んだ憂鬱な絵だった。Kの過去はそこにあった。何時迄もそれを追っている執念が、作品にもKの肉体からもにじみ出して奇妙な泣いているような男だと思った。或いは非常に高く清い孤独の主かとも思はれ、そう考えるとKの執念と憂鬱な作品の表情はおそらく純粋に不逞な魂をそなへているのかも知れないと思はれた。ちょうど展覧会は最終日で、たった一枚売れた絵の収入で私に奢ろうと言うことだった。連れ立ってその晩は泥酔した。酒の間に幾度となくKの口からモヂリアニがでた。若く烈しい焦燥と不遇の生涯を絵の終始して閉じたモヂリアニの不思議な熱っぽい静寂が、まるで他人事ではないとでもいふように、好んでその恍惚と熱情に近づき、浮かされ、溺れることが、Kの内部の画家を強く創造へ駆り立てていた。そしてその一方では、セザンヌの主智性に学んで歩一歩と築いて行くリアリストでもあった。その晩以来私は引き留められるまま、Kの仕事場へ泊まり込んでいた。・・・」

 この出会いにより蓊助は再び画家の道をあゆみ始める。ひたすら画道に邁進する画家K=憲の強烈な情熱が、衰えていた蓊助の画家魂を復活させたのだ。彼は一切の持ち物を売り払い絵の具とキャンバスに変え、新宿・花園神社前の安宿「一光ホテル」に移り、「描く為に売り、売る為に描く」の生活を始める。新宿裏を往時のモンパルナスになぞらえ、夜ともなると詩人や画家や文化人と称する人種が沸いて出たそうだ。酒場での議論も喧嘩も愛欲も罵倒も狼籍も大きな流れの中の泡粒、それがやがてもっともっと大きな時代のながれに飲み込まれていくのか。

(続く)

Yoshioka コラム

Main Yoshioka