追憶の彼方から~吉岡憲の画業展

猪羽恵一「吉岡憲展ライナーノーツ」

(4)目白風景

<回想編>
「目白風景」が画廊に来た。色合いは渋く感覚的には好きだったが、正直何が描いてあるのか、よくわからなかった。見る人は「いい絵だ」と言う。「いい絵だね」と聞かれ、「そうですね」と答えるものの、どこか釈然としない。私としては、いい絵だとは思うが、もっとはっきりした確信が欲しかった。そして何日間か眺めていた。

ある日の夕方、画廊には誰もいなくなった。一人で眺めていると、それまでゴチャゴチャしていた風景が、突然と理路整然とした目白風景になった。見慣れてきたせいなのか、夕暮のせいなのかわからないが、その瞬間にようやく心から「いい絵だ」と思えるようになった。そのためか「目白風景」を思い出すとき、私の中では「夕暮の目白風景」になってしまうのであった。

しばらく「目白風景」に酔いしれている時に、月に一度くらい来てくれる関西からの常連さんが見えた。しばらく話をしているうちに、話題は「目白風景」に移った。「いい絵だね」と言われ、私も「そうですね」と躊躇せず言えた。値段を聞かれたので答えた。すると「ほな、貰ろうときます」と言ってくれた。お客さんが帰ってから、売れた嬉しさに浸りながらも、「目白風景」と別れる寂しさも湧いてきた。差し込む夕陽の中、しばらく「目白風景」を眺めていた。

しばらく「目白風景」に酔いしれている時に、月に一度くらい来てくれる関西からの常連さんが見えた。しばらく話をしているうちに、話題は「目白風景」に移った。「いい絵だね」と言われ、私も「そうですね」と躊躇せず言えた。値段を聞かれたので答えた。すると「ほな、貰ろうときます」と言ってくれた。お客さんが帰ってから、売れた嬉しさに浸りながらも、「目白風景」と別れる寂しさも湧いてきた。差し込む夕陽の中、しばらく「目白風景」を眺めていた。

<分析編>
それから月日が経った今。「目白風景」の魅力とは一体何なのか、私なりに分析してみた。それを3つの視点から検討したい。

(1)まず技術。速い筆さばきによる描写である。建物、地面、そして人をかなりのスピードで描かれたのだろう。瞬時に対象をキャンバスに移してしまう類希ない力量。あまりのスピードで原形を留めていない。これは風景画に限らず、吉岡憲の絵全体に言えることである。そのスケッチの瞬間を、タイムマシーンさえあれば見てみたい。

(2)次に構想。そのベースはセザンヌである。セザンヌの登場まで、キャンバスには一方向の角度からしか描けなかった。セザンヌは自由な角度から部分を描くことで、対象を再構築した。一枚の絵に、「複数の視点が共存」させ、その後のキュビズムの基礎にもなった。吉岡憲は特にセザンヌが好きであった。

そして、この「目白風景」には3つの視点が共存している。画面の中間から下部は、街を俯瞰した視線であり、かつ①右へと進み視線と、②左へと進み視線が共存している。そして画面の上部は③丘を少し見上げた視線である。この奇妙な視線が、吉岡憲の風景画を受け入れがたいものにしているかもしれない。しかしこの奇妙な視線こそ、広大な視野を一枚の絵に収めることが可能にしたのである。

ではなぜこのような試みをしたのか。その問いは同時にセザンヌに向けられる問いでもある。その答えは、対象を支配したいという画家としての渇望ではないだろうか。絵は写真でもなく、風景をそのままキャンバスに移し変える作業でもない。絵にしか見えない風景だってある。それを描きたいと。この目白風景は吉岡憲にとってのセント・ヴィクトアル山ではないだろうか。

(3)最後に動機(モチベーション)である。セザンヌを援用しながらも、いくつかの違いを発見できる。まずセザンヌの風景画には人があまりいないのに対して、吉岡憲の風景画には必ず人を配置している。さらにセザンヌの場合、その明るい色彩も相まって世俗から離れた逃避的な印象を受ける。一方、吉岡憲の場合はその暗い色調も相まって、生活臭さえ帯びた現実的な印象を受ける。 セザンヌの芸術性を取り入れながら、実はここがセザンヌとは決定的に違う点ではないだろうか。つまり吉岡憲が物を描きたいのではなく、人間を描きたかったことではないだろうか。風景とは言っても、建物、道、そして街は人間の産物である。戦争によって壊された風景、戦後それを立て直そうとしている風景。どちらも人間によって行われている。愚かさと逞しさの矛盾がこの風景に詰まっていて、それが人間の本質を表していると、吉岡憲は感じていたのではないだろうか。 否、その正反対かもしれない。人間を描きたくなかったのかもしれない。そのため風景画を多投したのかもしれない。しかしどちらにしても吉岡憲の人間臭さが画面からは消えることはなかったのかもしれない。

分析と言っても、飛躍に飛躍を重ねるだけになってしまったようだ。ともかく私にとってこの「目白風景」は尽きない味わいがある。この度、再会するにあたっては、その駆け抜けた筆跡を、もう一度ゆっくりと解きほぐして楽しみたい。

猪羽恵一

父の経営するいのは画廊に勤務し、吉岡憲の画業展など展覧会をプロデュースした。現在は、本郷美術骨董館に勤務。