写実の求道者・後藤禎二に捧げる再評価への序章
 ――その形而上学的リアリズムについて

岡部昌幸(美術史家)

p4

 美術評論の大家・河北倫明先生にも後藤禎二の考察がある。「その基本は「絵画の真価は、対象に関する正当な認識を深めることのなかにある」といったものであった。」それが理由で、後藤禎二は写真の限界とモダニズムの恣意性に満足できなかったと論じた。「後藤さんにとって大切なことは、対象を深く認識したいと思えば、ただ見るだけでなく、身をもってなんらかの働きかけを行い、その行動の上でいっそう具体的に対象について経験しながら、これをとらえようと努めなければならなかった。絵画とは感情の表現などというものでなく、真実性の具体的主体的な把握であり、そのためには画家は心身をつくして、経験し、反省し、その上に仕事を深めていくべきであった。このような行き方を後藤さんは画家の本道とし、自分を苔うちながら孜々として努められたのである。」(河北倫明「故 後藤禎二さんの絵」『後藤禎二遺作展』)とその絵画論を述べた。

 画家によれば「外界に実在する対象をただ見ているだけですませずに、画布のうえに絵画として実現しようとしていることは、対象の主体的把握のひとつの方法ではないかという考えが、私のうちに芽生えてきて、それがしだいにはっきりと育ってきた。こんな考えが、ひいては、考えの真価とは、対象に関する正当な認識を深めるということのなかにあるという見解を、私にもたせるようになった。」(後藤禎二『絵画の真価』、造形社、1964年、6頁)「視線がとらえたものを、具体的な手や腕など動作としてあらわし、それを根拠としてあらわし、視覚でとらえたものをみずから再認識してみるのが写生画である。」(後藤禎二「写生画の方法とその意味」『教育』第63号、1956年9月、国土社、46頁)という。

 画家・後藤禎二が目指したもの。それは究極のところ絵画とは認識の方法なのであり、空間のなかにある物を自身がいかに認識して表現するかである。この哲学的思惟の行為にこそ優れた芸術が現われる。そのため最終的には、《横に並べて》《玉葱とタバスコの瓶》《馬鈴薯とワイン》などの諸作で、物と物との関係を突き詰めていく。ここにはシャルダンの穏やかさだけでは済まされない、画家自身のいう「昔の画家たちのとは別個な二十世紀的感情――または感覚」「解釈」が挑戦的に盛り込まれているのだ。後藤禎二の絵画には、すべてが見えているようで、大切なものは安易には見えてはいない。形によって形でないものを表現しようとしている。それは、省察したときに初めて見えてくる。私が形而上学的リアリズムと呼びたい芸術である。求められることは見ることなのだ。

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岡部昌幸「写実の求道者・後藤禎二に捧げる再評価への序章

後藤禎二展

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