写実の求道者・後藤禎二に捧げる再評価への序章
 ――その形而上学的リアリズムについて

岡部昌幸(美術史家)

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 哲学すなわち形而上学が何であるかが天才的簡明さをもって鮮かに語られている。ベルクソンによれば哲学とは霊的同感によって絶対を流動的の形のまま把握するものである。哲学するとは空間と物質へと向う思惟の作業の常習的方向を転換して精神の鼓動を感覚することである。(中略)哲学とはいったいどこまで徹底的にものを見るのであるかということ…」(九鬼周造『九鬼周造随筆集』(1991年)岩波書店、55ページより)

 今、筆をとったことに、私は運命を感じている。運命をつかさどるものはいったい何者なのかわからない。が、何かによって筆を執らされたような気がしてならないのである。

 私が後藤禎二の名を目に止めたのは2年前。いのは画廊のカタログによってであった。その少女像の油彩小品をみたとき、一瞬のうちにこの画家は絶対埋もれた大作家であると直感した。その写実力はもちろん、清澄でありながら強いコントラストをもつ明暗は印象深かった。潔癖な感じもするが、美術史の知識があれば、それは西洋絵画史の底流に一貫して流れる香り高い「古典性」なのだと感じるだろう。画家の経歴や背景は知らなくとも、作品に知性と教養があり、静かさのなかにも何かを訴えかける強い力がある。この画家を追求していきたい。と直感から思った。その直感が偽りではないのは、私がその作品を直ちに購入したことでおわかりいただけると思う。

 そのときは生没年すらはっきりとしていなかったこの画家を調べるのは簡単ではなかった。手がかりになると思われたのは、独自の絵画論を展開した多くの著作である。経歴はそこからわかった。さらに思想も。『絵画の歴史』と銘打った著作は、単に歴史を叙述するのではなく、絵画の本質を歴史にたずねた絵画論になっている。『静物画入門』でも、絵画と同じ構図で写真を撮り両者を比較して、写実とは何かを追及した実験をし、写実の作例として自作を図版で大きく扱い、ユニークな絵画論になっていた。

 『働く婦人』そのほか雑誌の挿絵や装丁を多く手がけていること。美術教育や児童画教育をテーマとして多くの論考があることも知った。画家は左翼系のヒューマニストと連想された。そして文筆にも優れた理論家である。どうりで、日本近代美術史研究のもっとも欠落している流れにある。そこに忘却の理由があるように感じられた。多摩川の土手を描いた作品もあり、世田谷在住であることが想像された。資料から知りえた図版で驚いたのが《銅の水差し》である。これはシャルダンというより形而上学的なモランディではないか?異色さはますます際立って見えてきた。

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岡部昌幸「写実の求道者・後藤禎二に捧げる再評価への序章

後藤禎二展

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