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ING>昭和の洋画1930年協会

伊原 宇三郎

1894-1976

徳島市生。1916年東美に入学、在学中に帝展に入選。1921年東美を首席で卒業。1925-29年渡欧。サロン・ドートンヌに入選。1929、30、32年帝展で特選。1933年より東京美術学校助教授を務める。戦時中は従軍画家として中国、東南アジアに赴く。1946年日展審査員として出品もする。1956年ベネチア・ビエンナーレ代表として渡欧。1960年にはフランス政府より芸術文化勲章のオフィシェ賞を受賞。1976年歿。

 

伊原宇三郎は徳島の代表画家の一人だが、帝展期でも屈指の技巧派でもあった。その技術は、1921(大正10)年東京美術学校を首席で卒業するという形で認めらる。同期卒業生には前田寛治、片岡銀蔵、田中繁吉らがいた。卒業制作《よろこびの曲》は完成度の高い作品で、帝展にも入選し、文化庁買い上げとなった。

翌年は、帝展で落選するという挫折を味わうが、翌々年には、カルピスやキューピーの社長の後援も約束された。しげ(戦後「由紀しげ子」で芥川賞)と結婚もし、念願も渡欧も決まった。1925年パリに向かって神戸港を経ったとき、「神をでも蹴っ飛ばす元気」(※)だったという。

翌々年には、カルピスやキューピーの社長の後援も約束された。しげ(戦後「由紀しげ子」で芥川賞)と結婚もし、念願も渡欧も決まった。1925年パリに向かって神戸港を経ったとき、「神をでも蹴っ飛ばす元気」(※1)だったという。

しかしながら現実は厳しく、サロン・ドートンヌに落選してしまう。1926年になり、フランス各地を精力的に巡り、写生を行う。模写なども行い、翌年はイタリア各地も巡る。1927年サロン・ドートンヌに入選しを念願を果たした。帰国後、滞欧期の作品は日本で評判を呼び、1930年協会展や三越などで滞欧作が展示される。帝展でも特選を受け、当時の最高峰の画壇に仲間入りした。 

本作はこうした時期の、伊原の最も充実した時期の作品。絵の裏には自筆で「東フランスの古都・ブザンソンにて・ヴィクトル・ユーゴーの生地」と生真面目な字で書かれている。サロン・ドートンヌ落選後に描かれた絵とすれば(※2)、その力強いタッチは、まだ自信を失わんとする強い意志から生れているのかもしれない。

(※1)森芳功「伊原宇三郎,戦時下の画業について」 『伊原宇三郎展』(1994)目黒区美術館、徳島県立近代美術館

(※2)裏書きには、制作年が「1925年」とあるが、 『伊原宇三郎展』の年譜によれば年譜を見ると、1926年2月から3月の間に、ブザンソンを訪れているので、「1926年」の可能性も高い。

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