コラム「太平洋画会・河合新蔵」

<作品に戻る<

20世紀に入った年に、河合新蔵、満谷国四郎、鹿子木孟郎、丸山晩霞は渡米のため、横浜港を立った。が、呉服屋の次男である河合と、満谷は中等室で、鹿子木と丸山は三等室だったという。今の旅客機で言えばビジネスクラスとエコノミークラスの違いであろう。同士ながらも格の違う部屋で渡米することは現代とは感覚が違う。

吉田博らと合流し、アメリカで展覧会を開くがこれが大成功に終わる。このことが「太平洋画会」の原点であることは多く書かれているので割愛する。 のち河合はイタリア・オランダ・スイスを巡り1902年2月パリに着く。ローモン街に先にいた鹿子木と滞在し、アカデミー・ジュリアンに通う。その後アカデミー・コラロッシでラファエル・コランに師事する。コランと言えば黒田清輝を指導した白馬会の源流とも言える画家だ。

この作品は太平洋画会か関西美術院に出品されたものと思われるが、画風は白馬会(紫派)的でありコランの影響を色濃くしている。1904年鹿子木と帰国し京都に居住。アメリカでの仲間が前々年に設立した太平洋画会に鹿子木とともに参加する。

(2003年1月筆・2009年2月加筆)

-参考文献-
児島薫編『日本の美術352〜鹿子木孟郎と太平洋画会』(1995年)至文堂
『もうひとつの明治美術』(2003年)静岡県立美術館・府中市美術館・長野県信濃美術館・岡山県立美術館,p263

 

河合 新蔵 「セーヌ」 1901年 油彩・キャンバス F8号

 
©Keiichi INOHA